仕事と生活(1)

Sidの海外紀行

 赴任先はC社の海外研究開発会社で、赴任時に約100名程度の(私を含め3人の日本人以外は現地人)人が働いている。私が技術者とし日本で働いている時 に出願した特許が海外にも多く出願され、そのお陰で多くの現地人から、貴方の特許を読んだことがあると声を掛けられ、現地人と親しみを感じた。
 会社の基本的ビジネスモデルは親会社からの100%研究開発委託で、親会社の景気が良ければ非常にリスクの少ない会社である。年度の初めに親会社と年間 契約をし、年間の予定収入が推定できるので、その収入に合った人員を確保すれば、そこそこの利益が確実に確保出来る。
 資本は親会社が51%、親会社の現地販売会社が49%を出資している。販売会社からは何の仕事を貰う事は無く、管理費を収め、更に銀行金利よりほんの少 し良い金利で研究開発会社が得た利益を預金させることが暗に義務付けられていた。従って、利益が多く出て、自己資金を使い自社の 新たな技術開発を積極的に行う雰囲気はほとんどなかった。役員は開発会社から1名、現地販売会社から2名、親会社から2名の合計5名で構成されていた。し かも全員日本人である。C社はグローバルな会社と世間的には有名であるが、会社経営の実態と成ると日本人だけで決したがる傾向が強い会社と初めて知った。
 私が赴任する以前は販売会社の社長が研究開発会社の社長を兼ねていた。実質的には研究開発方針等の基本戦略は研究開発会社の日本人責任者に任せ、人事 権、利益の使い方だけに口を出す歪んだ?構成になっていた。従って実質的BOD(Board of Directors)会議はオーストラリア在住の3名の日本人で決めていた。組織構成は歪んでいると思っても、そこは日本人同士、表面的には穏やかに話をしている。前任の 責任者の話では販売上がりの人間と技術上がりの人間で長い間いざこざが絶えなかったと聞いている。しかし最後は社長の権限と2対1の人数で、嫌なことも押 し切られたと愚痴を言っていた。
 この研究開発会社は親会社から委託仕事を受けているが、C社の事業部に貢献するような仕事を全くしていない事が、私がこの会社に赴任した動機でもある。 赴任するまではC社の間接部門からの委託仕事でのみで生計を立ていた。何処の会社もそうであるが親会社が大きくなり、事業が儲かるとその金を新たな投資に 振り向けるのであるが、この采配を間違えると大きな問題となる。親会社の本社研究管理部門もこの投資の一部采配権を持っていた。海外研管理センター責任者 は明確な方針もなく海外研究開発会社から出されるプロジェクトが予算内に収まれば余り文句を言われない状況が続ていた。
 オーストラリアの研究開発会社も、C社の海外研究所になる前から有していた技術を世界標準にすることを基本戦略とし、表面的にはこの技術が世界標準にな ればC社にとって多大な恩恵が得られると宣伝をし、了解を得ていた。勿論親会社が細かな技術の中身まで詳細に把握する必要は無いが、入口と出口の結び付け を確り抑える事が重要だ。ここで入口とは、研究開発スタート時点でのテーマ設定、出口とは、出来た成果をどの事業部がどの製品に差別化技術とし採用してく れるかの問題である。特に出口問題は親会社の海外研究開発会社成果利用の視点から重要であるが、社内の縦割り構造の弊害で、中々上手く行かない。このよう な環境の中、赴任後の部長会(Division Heads Meeting)で今開発している技術をまずC社の事業部に採用されるよう最大の努力をし、事業部が魅力を感じ、今開発している技術に先行要素を付加する必要が有れば、C 社の間接部門の予算で開発をするよう指示をだした。この案に対し、内部的にかなり反発も多く、その大きな理由は”C社が現状で満足して予算も出しているの に何故余計な道を選択するのか”と言う点であった。しかし、C社の最大事業部に、以前私も技術貢献をしてきた関係で人的ネットワークがあり、そことコンタ クトを開始し、なんとなく結び付けそうな感じを抱いていたので、開発進路を少しずつ変えさせた。即ち、親会社の間接部門に技術貢献する度合いを減らし直接 部門に技術貢献する道に進路を切り替えたかった。
 これは技術者の本当の喜びは論文や特許出願だけでなく、自分が開発した技術をお客様が実際に使ているところを見る喜びが最大と確信していたからだ。この 議論が現地人と白熱していた頃、私の秘書から、SidはPushyだと皆が言っているというのを何度か聞いたことがある。当時の秘書は端正な香港女性で、 仕事をテキパキこなす才女。責任者はPushyでなければやれませんよとも言っていた。


copy right: 利学塾(Rigaku Crammer) all rights reserved