海外赴任数ヶ月前

Sidの海外紀行

 今回から数回にわたり、私が海外赴任し、仕事を通じ経験した幾つかの話をします。  
 第一回目は、海外赴任を選択した背景を述べます。私は複写機、カメラ等で有名な日 本企業のC社に勤務していた。C社は1960年代に拡販を目的に販売部門が海外展開 をスタート。続いて1970年代に生産部門が現地仕様の製品生産、コスト削減を目的 に海外進出し、最後に1990年代に入り世界の英知を集め、斬新な技術開発を目的に 研究開発部門も海外進出をした。
 その中で、私は入社した頃、複写機の電気回路、プログラム設計に従事し、その後、 複写機、プリンタのデジタル化に伴い、画像処理技術を研究開発する部門の長としグル ープを管理する立場になった。社内で画像処理技術の重要性とグループの成果が各事業 部に認識されるに従い、グループの組織も拡大し、海外の技術者と交流する機会も増加 した。そのような中、1990年代、C社は米国、ヨーロッパに各2社、オーストラリ アに1社の計5社の海外開発研究会社を設立した。当時私は、海外研究開発会社の設立目的は販売部門、生産部門の海外進出目的に比べ、曖昧で具体的でないと 強く感じてい た。特に、私の仕事に関係するオーストラリアの研究開発会社の成果は、私から見て、 C社の製品に何もリンクしない別の道を歩んでいて、何でC社がこのような研究に多額 の費用を投資しているのか理解に苦しんでいた。一方、お偉方は、技術的内容も良くわ からず、現地人が来ると、良い成果を出していると日本語でほめ散らかしていた。現地 の日本人管理者も現地人の言いなりになり、彼らの意向をただ日本の本社に伝えるだけ に見えた。しかし、以前は上司から、海外に赴任しないかと何度か言われてきたが、そ の時点では海外赴任に対するもろもろの不安から、断ってきたものだった。
 だがC社の本社部門に於いて一部若い技術者をおだて、彼らの気に入る組織に組織改 革を実行し、研究部門の組織が大幅に変更された。それまでに、何人もの私と同世代の 仲間が組織改革のもと、組織から追い出され、会社内で孤立化してゆくのを見てきた。 これは年を取るにつれ自分にも現実味が迫って来る気がした。  このような日本側での極端な組織の変化に対する嫌気と、海外研究開発会社での日本 人管理者のノー・コントロールに対する問題意識、更に、一度は海外で生活し、新たな 経験を積みたいとの希望が重なり、機会があれば海外赴任してみたいと感じる様になっ た。勿論、今までも年に数回は仕事で海外出張はしていたが、海外赴任となるといろい ろ悩むものである。即ち、50代で海外赴任すると本社での昇進を諦めるのは勿論、国 内で今まで作り上げて来た学会、大学、会社関連の人的ネットワークが疎遠になる怖さ もあった。しかし、個人的には博士論文も提出済みだし、末の子供も高校を卒業予定な ので、個人面・家庭面での心配は余り無かった。
 幸いなことに、当時、私の以前の上司が本社の重役・本部長と米国の研究開発会社の 社長を兼任していた人だったので、率直に相談した。その結果、C社のオーストラリア 研究開発会社の日本人管理者を帰国させるので、赴任しないかとの打診を受けた。オー ストラリア研究開発会社とは技術面で付き合いもあり、主だった現地技術者とは顔見知 りで、数回出張で行った事もあった。更に、俺ならばもっとあの会社を良くできるとの 意欲が沸いたのを今でも覚えている。
 英語に関しては、長年NHKのラジオ講座を録音し、通勤電車で勉強。更に英会話で は、家の近くにモルモン教があり、そこに海外から若い宣教師が入れ替わり立ち替わり 来るので、このタダの英会話教室に数年間通っていた。(モルモン教の勧誘の話になる と、私は先祖代々の仏教徒?で、と言い訳をし逃げていた。それでも彼らは嫌な顔もせ ず、次回からまた笑顔でいろいろ面白い英語の話を聞かせてくれた)勿論、海外出張、 外人が日本に来た際には、NHKラジオで覚えたてのフレーズを試しに使い、通じた喜 びをバネにますます英語に親しんでいった。そんな訳で、赴任に際し、英語のコンプレ ックスは無く、何とか成ると信じていた。
 相談をしてから数ヵ月後に、重役会議で私の赴任が正式に決まった事を告げられ、そ れから正式な海外赴任手続き、準備が始まる事になった。

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